R5.1.25.(土) 「世界で暮らす」お話し会 (2023/01/25分);
01/25(水)は、2000 年12月から翌年1月にかけて3週間ほど、真冬のバルト海沿いの国々を周回した家旅旅行を取り上げた(行程は、ドイツーベルリン他,ポーランドーポズナニ,ワルシャワ,ビアウイストック他ー,フィンランドーヘルシンキ,ロシアーサンクトペテルブルグ,エストニアータリン,フィンランドーヘルシンキ)。 ポーランドのポズナニでは、ディナー後に 娘さんのピアノ演奏に合わせて、「森へ行きましょう娘さん」をポーランド語と日本語で合唱して、和やかな時を過ごすことができた。 ロシアのサンクトペテルブルグでは、クラシック・バレエの殿堂 マリインスキーー劇場で「ジゼル」を特別席で鑑賞したり、ホテルで数袋のキャビア(黒海やカスピ海産のチョウザメの卵巣)を格安で入手でき、帰国後 キャビア丼を食べたことや、また 中世の面影を濃く残しているエストニアのタリン(買物はどこでもクレジットカードでO.K.だったが、デパート内の売り場は 何故か撮影禁止だった。お誕生日会の帰りだろうか、手に手に黄色い風船を持ち、誰もが鼻のてっぺんを黒く塗ったり ヒゲを描いたりしている 先生に連れられた小学生たちにも2回すれ違う。 小さなソリに子供を乗せて 引っ張って歩く家族の姿もよく見かけた。なお エストニアは、インターネットを利用した通話が可能なSkype発祥の地)の街並みが 印象に残っている。
最後に、以前のアフリカ滞在時に入手した 各種宝石類(ダイアモンド,アメジスト,サファイア 等十数種類)の原石を紹介した。
☆ 今まで滞在した国々の旅行記の詳細を 次のURLに投稿済み(随時更新中)。
http://4travel.jp/traveler/takeyoko/ → 「タケさんのトラベラーページ」 → 旅行記/写真/クチコミ他を参照
2022.10.22.(土) 話しの内容(横山 羌泰);
今回は、中国を取り上げた(2010年5月~6月の15日間;たまっていたマイレージを使った ユースホステル利用のバックパッカー 一人旅)。
以前から訪ねたいと思っていた中国シルクロードの一部を旅してきた(中国人につけてもらったという当方の名前 羌泰ータケヒローの「羌(中国名 チン)」の起源を求めるのも目的の一つ)。旅程は 関空 ⇒ 上海・蘇州 ⇒ 西安 → 嘉峪関…敦煌…吐魯番(トルファン)…敦煌 ⇒ 北京 ⇒ 関空 (⇒;航空便,→;列車,…;バス)で 延べ8,500 km。
今回の出発前日の夜に 中国国際航空 窓口のANA担当者から連絡があり、「予定していた日の敦煌~北京間の航空便が運休になった」とのことだった(尋ねても、理由は分からない とのことだった。利用客が極端に少なかったのだろうか?)。仕方なく前日の便に振り替えた。さすが体制の異なる中国だなと苦笑させられた。
上海・蘇州 ;
旧租界時代に建てられた欧米様式の荘厳な石造建築物が隙間なく並んでおり、堤防沿いの遊歩道を歩くと夕風が涼しい。夜になると一斉にライトアップされ、往時の繁栄振りの一端がうかがえる。 「豫園」(江南地域随一の古典庭園と言われる)には 奇妙な形をした白色の太湖石が配置されて、その造形美は観光客の絶好の撮影ポイントとなっている。/伝統的な建築様式が数多く残っている「豫園商城」には、上海名物の小吃(シャオチー)が味わえる店や屋台が軒を連ねて、多くの客が行列している。 上海随一の観光エリアで 黄浦江 西岸を走る中山東一路沿いにある旧租界地区「外灘(ワイタン)」は、当時建設された西洋式高層建築が建ち並んでいる。泊まったユースホステルの洗面所には陶磁器製の洗面器が並んでいて、いかにも中国の宿舎 という雰囲気を醸している。 上海の西に位置する蘇州への一日バスツアーに参加。 東洋のベニスと呼ばれる蘇州は 庭園と運河で知られており、「留園」は 落ち着いた静かな所である。 蘇州名産となっているシルク工房を見学(色彩豊富な刺繍あり)。
* 水の都 蘇州といえば”蘇州夜曲”(西条八十作詩/服部良一作曲/李香蘭(山口淑子)の歌)。
西 安(平城京や長岡京,平安京の碁盤の目状の街並みの起点となった 旧「長安」) ;
秦の始皇帝(~紀元前221年)の大規模な陵墓には、数多くの兵馬俑(2,000体ともいわれる等身大の種々の表情を持つ陶製の兵士や馬)が埋葬されている(「秦始皇帝兵馬俑博物館」は世界文化遺産に登録)。 遣唐使として長安に滞在して、科挙試験にも合格し 時の皇帝玄宗に重用されて 晁衝という中国名を賜り、政府の要職を歴任した 阿倍仲麻呂 の記念碑には、望郷詩(“天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも……”の原詩),親友だった李白の哭晁卿衝詩 等)あり。 また「青龍寺」には、唐代に留学僧の一人として密教を学んだ空海の像を有する 「空海(フーハイ)記念堂」 がある。 テーマパーク「大唐芙蓉園」内の鳳鳴九天劇院で、華やかな唐代の踊りを再現した一時間余りの優雅なショー を鑑賞。 西安の周囲を囲む東西に長い方形のレンガ積み 旧長安城壁の総延長は約14kmで、その石畳みの上を レンタサイクルで100分間ほどで回れる。 女性ドライバーのタクシーで、開遠門というシルクロードへの出発地 絲綢之路起点群像=シルクロード起点の群像= を訪ねた。夕食には 西安名物の餃子定食を選んだ。
嘉峪関(「懸壁長城」は万里の長城の最西端) ;
嘉峪関への列車内では、トマトやきゅうり等(買った乗客たちは それらを丸かじりしている)の車内販売や、やかんに入れた湯のサービスや弁当の販売等 それに 「筋肉もみほぐし器」 を売りに来たりする(何でも有り)。 窓からは、所々に黄土色の山々(黄土高原?)や 空をバックに雪を被った祁連(キレン)山脈 が見られる。 車窓から見える風景はやがて急峻な山肌や 黄土色に濁って重そうに流れる川 に変わっていく。窓外の景色を見るのにも飽きて 退屈になると、席を立って 若い母親に抱かれた赤ん坊の写真を撮ったりして過ごす。敦煌へのバス乗り場では、作りたての炒刀削麺の昼食(≒85円)を摂る(あっさりしていておいしかった)。
敦 煌 ;
ゴビ灘(タン;砂漠)を4時間ぐらい走って(事故車を目撃) 敦煌に到着。 古来、沙州(サシュウ)と称される敦煌は広大な砂漠に囲まれた中でのオアシス都市で、東西の人々が行き交うシルクロードの交差点であった。 ユースホステルは 中年の夫婦で切盛りしている模様で、あいにく英語が話せないートルコ人他の外国人も泊っているのにー(要領を得ないので筆談に切り替える)。 夕食は敦煌ラーメン。 鳴沙山東端の断崖に開削された石窟群で、4世紀半ばにある僧侶によって造営が始められた「莫高窟」はほぼ1,000年間に亘って 造営が続けられた(南北の両壁には 莫高窟で最大という高さ15mの巨大な菩薩像と飛天が描かれ また 東方のモナリザ と称される優雅な姿の仏あり;どのデザインも彩色が素晴らしく、見るほどに 莫高窟の威容感が増すばかり)。 土漠の中にある「陽関」は、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つで、入口から遠くに見える高台の上に朽ちた姿で残っている烽火台までは場内車で登っていく。唐の詩人王維が 「西、陽関を出ずれば 故人無からん」と詠んだとおり、高台から先の南方には 霞む地平線まで乾いた土漠が続くばかりで、ここからのシルクロードはまさに地の果てに赴く という感を禁じ得ない。 「葡萄の名酒 夜光杯 飲まんと欲して琵琶馬上に催す 酔うて沙場に臥すも君笑う莫れ 古来 征戦 幾人か回る」 という涼州詞(唐の王翰の詩)で知られる甘粛省名産の 夜光杯 は甘粛省中ほどの南側に連なる祁連(キレン)山脈のみで産出される墨玉(ボクギョク)という玉石から加工されるグラス状の杯である。 敦煌市博物館で、「敦煌周辺に羌(チン)族の人たちは居るのだろうか?」と尋ねたら、その返答は「羌族の子孫は周辺にまだ残っているだろうけど、漢族や回族と同化してしまって 今では見分けがつかないのでは……」ということだった。近くに居るのであればちょっと会ってみたいな と考えていたが、これ以上は無理なようなので諦める。 沙州故城とも呼ばれる旧敦煌城遺跡は、今は崩れかかった岩壁の所々に窓だったような穴があいているのが見られるのみで 面影は全く無く、寂しい限りだった。 幾重にも連なる鳴沙山(メイサザン)の砂丘群上から眺められる 漢代からの遊覧地として知られる三日月形の月牙泉は、古来枯れたことが無い と言う。
土漠の中を車で20分余り走ったった先に、ポツンと楼閣らしきものが見えてくる。1988年に日中共同で製作された映画「敦煌」(井上靖原作の「敦煌」)が撮影された実物大のセット"倣宋古城(ほうそうこじょう)"である。往時の敦煌城を復元したもので、高さ18mにもおよぶ楼閣下の門をくぐると、内部には仏廟,市場,民家等のセットが一面に設けられており、また当時の武器や軍旗(のぼり)や男女の衣装も飾られている。衣装は試着出来るようになっている。悲嘆した女性が見上げるばかりの楼閣の上から身を投げる というかすかに記憶する映画の名場面を想い出しながら 見て廻る。
トルファン(新疆ウイグル自治区) ;
トルファンは、シルクロードの天山南路と天山北路を連絡する新疆ウイグル自治区の要衝だった町で、イスラム教を信奉する 中央アジア特有の風貌と慣習を持ったウイグル族の人々が居住している(多くのモスクーイスラム教寺院ーあり)。盆地の中央に位置するため乾燥してはいるが、夏場は酷暑が続き火州と呼ばれる 世界でも有数の低地となっている。芭蕉扇を肩に担いだ孫悟空のモニュメントのある「火焔山」が見られる。 葡萄畑に囲まれた吐峪溝(トルク)で買った干し葡萄は、噛むとほんのりと甘くておいしい(のどかな中央アジアの香りがする)。かの玄奘三蔵法師がインドに向かう途中、時の高昌国王に請われて2カ月ほど滞在した「高昌故城」は、インドからの帰途 多数の仏典を持って立ち寄った時には 既に滅んでいた(-兵(ツワモノ)どもの夢の跡-)。 独特のウイグル帽を被った男性や色とりどりのスカーフを巻いた碧眼の女性たちが生活していて、漢族が主流を占める通常の中国とは また違った異国情緒が感じられた。 緑したたるブドウ園に囲まれた「葡萄民族園」では、ウイグル族男女の伝統舞踊を楽しめる。
北 京 ;
敦煌空港では、中国語,英語に続いて日本語の案内アナウンスがあった(日本人観光客が多いのだろう)。 文化大革命や1989年の天安門事件等の舞台となった「天安門広場」,歩行者天国の繁華街「王府井大街」,明~清代の歴代皇帝と皇后が暮らしていた旧紫禁城-最後の皇帝=ラストエンペラー=は宣統帝 溥儀-「故宮博物院」を 北側にある山腹の景山公園から眺めたりした。
*あいさつや簡単な中国語しか理解できない旅で、中国内シルクロードのほんの一部に過ぎなかったが、思い切って行ってみて、悠久の歴史を持つかの国の往時に思いを馳せる印象深い滞在となった。同時に、改革開放後の目覚ましい今の中国の発展振りと、そこここに残る伝統的な胡同(フートン;下町の雰囲気が残る古い路地)で生活している人々、それに 我々の常識とは異なる彼ら中国人の人となりや考え方,風習,マナー等をかい間見る よい機会でもあった(中国は全土で時差が無く、日本より一律一時間遅れ)。
なお 子供たちには、アフリカ等で入手した宝石の原石を見せて、「誕生石一覧」や「星座石一覧」を提示し 説明した。
R4.12.7 「世界で暮らす」お話し会;2022/12/07(水)および14(水) 分
話しの内容(横山 羌泰);
12/07(水)は、ポーランド(Polska;ポルスカ)を取り上げた。 この度の ロシアのプーチン政権による侵攻(特別軍事行動≒戦争?)で、ポーランドに避難している多くのウクライナ人に対して、ポーランド人が献身的に援助していることが大きな話題となっている(10世紀に国家として認知されたポーランドは、隣国のロシア,ドイツなどに何度か分割されて消滅し、世界地図から姿を消したことあり)。 今までに、定年退職後も含めて 開発途上国を中心に 幾つかの国々に滞在してきたが、中でも 最も長く付き合いのあるのが ポーランドである(40年以上)。 1980年に 最初に海外赴任した北アフリカのリビアで滞在していた同じホテルには、近くの病院に勤めるポーランド人の医師や看護婦たちが20~30人ほど泊っており、切手やコイン交換が縁で親しくなった(ロビーで 持っていたハーモニカで ポーランド民謡「森へ行きましょう娘さん♪」を奏でていたら、突然合唱を始めたーホテルのマネージャーには 集合罪で逮捕される と注意されたがー)。現場には猛毒の黒サソリやヘビ,毒グモが居るので、痛み止めの錠剤を 彼らの勤める病院を訪ねて入手したり、のどを痛めた同僚を連れて行って 診てもらったりした(全て無料)。そのうち、難解なアラビア語を覚えることはあっさりとあきらめて、彼らにポーランド語を教わることにした(あいさつや簡単な文章,果ては発音練習用の早口言葉に至るまで、暇を見つけては ロビーや彼らの部屋でお茶を飲みながら という具合い)。休日には、彼らの車(ミニバス)に乗せてもらって よく一緒に2kmほど離れた地中海岸に泳ぎにも出掛けた(ビーチは遠浅で、水は暖かく泳ぎやすい ; ちなみに リビア人に海水浴という習慣は無い)。ある時、屋上で彼らと談笑していたのを見掛けたホテルのマネージャーに、「これ以上屋上へ行くことはまかりならん」と言われ、以降 彼とは気まずくなった(日頃からスエーデンのロックグループABBAの音楽を大音響で聴いていた彼にうんざりしていたポーランド人たちは、「ジェラシーだ」と言ってくれたが)。おかげで、数人から 家族への手紙やお土産を託されて、帰途 彼らの家族を訪ねて、当時 社会主義国だったポーランドへ寄らざるを得なくなり、西部のポズナニ(ポーランド最古の都市の一つで、毎年6月上旬に行われる国際見本市の開催地),首都ワルシャワ(第二次大戦中に 街は徹底的に破壊されたが、戦後 元の姿に忠実に復元され、「ワルシャワ歴史地区」として世界文化遺産に登録,北東部最大の農業都市ビヤウィストック(かって チュルノブイリ原発事故の影響を受け、また 国際共通語として作られた エスペラントの創始者ザメンホフの出身地;ビャウイストックの街のすぐ南にある 貴重なヨーロッパ・バイソンの住む「ビャウォヴィエジャの森ー原生林ー」を訪ねる;ユネスコの世界遺産に登録済み)に立ち寄った。 また 南部の古都クラクフ(京都市と姉妹都市)近郊のオシフィエンチムにあったナチス・ドイツ占領下であった アウシュヴィッツ強制収容所 跡地は、博物館として無料で公開されており、先生に連れられた生徒たちをよく見かけた。 近くにある広大な地下岩塩坑は13世紀より採掘され 1996年に廃坑となったが、全て岩塩で 精巧に造られた礼拝堂などがあり、「ヴィエリチカ岩塩坑」として 最初に登録された世界遺産のひとつとなっている。 以降 現在まで40年以上、子供たちを含めて お互いに家族ぐるみで 行ったり来たりの付き合いが続いている。 現在、家族会員として 「日本ポーランド協会」の運営を 長年に亘りお手伝い中 ; ポーランドから日本の大学院へは多く留学しており、修士論文に 有馬温泉や宝塚歌劇を選択する人たちも居る。往時から、ワルシャワ大学を初めとして 各地に日本語学校があり、彼らはきれいな日本語を話す)。 ロシア革命後、流刑地シベリアからポーランド人孤児たちを開放した日本の団体があったり、アイヌ民族を研究し アイヌ女性と結婚して、その子孫は現在も日本で生活している 等々で、ポーランド人は相当親日的である。 2009年には 小さい子供連れの若いポーランド人家族が来日し、京都太秦映画村,金閣寺,嵐山他を 数日間案内。 昼食は和食店で!! (長女の名前はMaya-マヤ-で、ポーランドでもTV放映されていた 日本のアニメ 「みつばちマーヤの冒険」から採った とのこと)。 ポーランド共和国は 、南部の一部の山岳地帯を除き 国土のほとんどが平野で、バルト海に面し 森や湖など手つかずの自然が残された美しい国(「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」が語源;平均高度は173 m)。 国民の約95%が敬虔なカトリック教徒。 サッカー/バレーボール(前回東京オリンピック時の女子バレーボールで 日本,ソ連に続く3位)/スキージャンプ男子(同オリンピック時の90mジャンプで優勝) 等のスポーツ強国である。 また ポーランドは琥珀(Bursztynーブルシュティンー)の一大産地で、バルト海沿岸のビーチでは、世界の琥珀の8割以上が産出される。 「ピアノの詩人」フレデリック・フランソワ・ショパン(「ショパン」という名のウオッカあり)や、生命をかけた放射線の研究等でノーベル賞を受けたキュリー夫人,16世紀に地動説を唱えたコペルニクス,社会主義国初の教皇だった 前ローマ法王 パウロ二世 たちが知られる。さらに、アフリカで入手した種々の宝石の原石(母岩)を提示した。
12/14(水)は、中央アフリカの赤道直下の国 ウガンダを取り上げた。 首都カンパラ市内は緑が多く、標高が高い(海抜≒1,150 m)せいか 思っていたよりもずっと涼しい。 世界でも有数の難民受け入れ国で、北接する南スーダンの内戦により、毎日2,000人以上とも言われる難民が ウガンダ北部に設置されたいくつかの難民居住地区に避難しており、現在その数は100万人を超えている(ウガンダは 考えていたよりもずっと土地が広い感じ)。 他の支援団体等と連携して、これらの難民居住地区での支援プログラム(緊急供水支援,トイレ設置等の衛生支援および半永久的な住居の建設支援)を順次実施した。 種々のミーティングに参加したり、当時の美智子妃殿下が英訳した詩集(10冊) と 学童保育教室から預かっていた30着ほどの衣服を 難民の小学校などで贈呈したりした(難民と実際に接してみると、ごく質素な生活を営みながらも 明るく陽気なふるまい)。 町中では、ワニやダチョウの肉,ドネルケバブ(筒状に焼いた羊肉や鶏肉を ナイフで削ったものを パンに挟んで食べる。安くて美味しい) 等が食べられる。
同国北部の難民居住地区近くの小さな田舎町ユンベに滞在。 宿泊していた小さなホテルはインターネットがつながりにくく、夜に数時間停電があったり 湯が出なかったり という不便なことが日常茶飯事の状況。 ベッドには蚊帳が付いているが、部屋にはエアコンや冷蔵庫 テレビは無し。 肉はヤギ肉が主体で、マトケ(バナナを蒸したもので、ウガンダの名物料理)等がある。 街中には銀行も郵便局も無いので、必要ならば近くのより大きな町(車で一時間半ほど)まで出かけることになる。 人口の大半はイスラム教徒で、街中には多くのモスク(イスラム教会)有り。 住民は人懐こくて 穏やかで、自然豊かな国であることを実感した。 首都カンパラから車で2時間ほどの所にある赤道にも行ってきた。赤道モニュメントの近くには、土産物店と小さなレストランが数軒あるのみで、赤道の北側と南側では 台風に見られるように 水の渦が逆方向に回ることが分かった(赤道直下では 渦は静止したまま)。近くにあるビクトリア湖は エジプトに連なるナイル川(総延長=6,695 km)の源流域となっている。 毎年10月15日に催される Unicefが唱える「世界手洗いの日
」(手をあらおう/手をつなごう)のパフォーマンスには、多くの地元民が集まる。 最後に、任国外旅行で行ったことのある 南アフリカでのペンギンやクジラの生態状況を動画で紹介した。